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明治以前の道明寺
道明寺略縁記 道明寺糒(ほしい) 明治以前の道明寺 年中行事 地図

道明寺 山門
道明寺 山門
大師堂及び護摩堂
大師堂及び護摩堂
楚石と中門
楚石と中門
大玄関
大玄関
庭園
庭園
■明治以前の道明寺

蓮土山道明寺は河内国志紀郡土師村(現大阪府藤井寺市道明寺)にある真言宗御室派の由緒寺院で、京都の堂上公家出身の尼僧の住職により代々守られてきた。


現在の所在地は道明寺天満宮の西側で、高壮な本堂や庫理、楼門等を有する河内地方有数の古刹である。

古くは土師寺と称し、土師氏の氏寺であった。土師氏は大化の改新以前は、古墳の造営や埴輪の製作、皇室の葬送儀礼にたずさわる氏族であった。
古伝によると、天穂日命を祖神とし、その十四世の孫である野見宿禰が、垂仁朝に土部三百人を率いて埴輪を作り、人が殉死するのに代えるという功績があり、本姓を改め土部臣と称し、土部連の始祖であるとされている。その後、土師宿禰古人が菅原姓を賜わり、他の一族の者も秋篠、大枝(大江)などの姓を賜わった。


寺伝による当寺の開創は、土師八嶋が氏神である天穂日命を祀り、聖徳太子が開基となり、八嶋が協力して自身の屋敷を提供して、東西一二〇歩、南北二二〇歩の地に、南大門、三門、五重塔、金堂、講堂等の伽藍を建立し、土師氏が檀越となった(現天満宮南側の平地)。
のちに白山権現、稲荷大明神二社を造営した。時代が下り、土師氏の子孫である菅原是善の妹である覚寿尼が入寺し、甥の菅丞相(菅原道真)の帰依深く、しばしば当寺を訪れた。菅丞相三十六歳の時に十一面観音を彫刻し、四十歳の時には五部大乗経を書写した。
それを納経した場所に、謡曲『道明寺』で有名な木げん樹が自生した。延喜元年、菅丞相五十七歳の時、太宰府への左遷の途次、当寺に立ち寄り、覚寿尼に決別し仏舎利五粒を残し、自像を彫刻し、鶏鳴に驚き出立した。延喜三年、菅丞相が太宰府で薨去し、遺品が送られ、今日これらの品は天満宮に伝えられている。
その後、講堂の後方に神祠を建て、自刻の像を安置し御神体とした。そして土師寺を道明寺と改めたとのことである。


近年の発掘調査によれば、道明寺は地方寺院であるが本格的な伽藍を有する寺院で、相当早い時期にこの地に営まれていたようである(現天満宮南側の平地)。
時代が下るが治安三年(一〇二三)藤原道長が大和・河内を巡歴したときに当寺に立ち寄ったことが『扶桑略記』に記されていて、法隆寺や四天王寺と比肩しうる堂塔伽藍を具備した有数の寺院であったようである。
延喜三年(九〇三)の道真の没後、約二百年後の道明寺の様を惟宗孝言の詩に、道明寺の塔が五重であり、本尊が観世音菩薩であったこと、そして道真が檀越でしばしば当寺をおとずれ、文章や状跡が残っていると詠まれている。
また平安末期から南北朝にかけて当寺と菅原氏との結び付きは密接で、同一族が別当であったことが記録されている。

鎌倉時代になると、寛元四年(一二四六)西大寺の叡尊が当寺で文珠供養を修し、当寺の関係者以下二百三十六人に菩薩戒を授け、永仁六年(一二九八)、忍性が鎌倉幕府に申請し守護権の介入を禁止させ、関東祈祷寺となった。
中世には律宗本山である西大寺の末寺となり、西大寺の保護を、また鎌倉・室町両幕府の祈祷寺として幕府の保護を受けた。なお延慶三年(一三一〇)西林寺の鑁阿が菅丞相の霊告を受け、八葉の神鏡を封閉しのちに勅封となった。


このように大規模な伽藍を有した大寺院であった道明寺も、元亀三年(一五七三)守護代遊佐氏の反乱による兵火にあい、尼衆が命懸けで仏像、持経、菅神像、宝物等を持ち出したが、七堂伽藍全山が焼亡した。のち、織田信長に愁訴し、朱印状を受け、本堂をはじめ天満宮・僧房・宝蔵等の伽藍を再興した。
その後も豊臣秀吉・徳川家康の朱印状を受け、復興につとめ、保護を受けた。延宝二年(一六七四)に水害により諸堂社が壊滅し、享保九年(一七二四)現天満宮境内の丘に移転する。なお再興の費用捻出のために霊宝の開帳を行い、特に中御門天皇・後西法皇の叡覧となり勅封とされた。その後も京都・大坂で出開帳が行われた。

土師氏の氏寺として草創され、併せて土師氏の氏神を祭祀する天穂日社と、菅原道真を勧請した天満宮等により構成されていた道明寺は、本地垂跡説により道真が十一面観音の化身との信仰により、神仏混淆の尼寺として明治維新を迎えた。

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 菅原道真公ゆかりの寺・本尊国宝十一面観世音菩薩像・道明寺糒(ほしい) ・護摩供修行
 蓮土山 道明寺 大阪府藤井寺市道明寺1-14-31
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